伊藤は大学を卒業して帰郷してからもミュージシャンになることを夢見ていて、よく東京へ行きました。ある時彼から「しょうちゃん、東京へ行くけど何か買ってくるものある?」と聞かれたので、「じゃあ、ゴッホ書簡全集全6巻をたのむよ」とお願いしました。文庫本と違って大判で厚くて重いハードカバーの本を、新幹線もない時代なのに、よくまぁ体力のない伊藤が6冊も買ってきたな、と今振り返ると思います。1冊3000円、当時ラーメン1杯300円の時代(ではない、よく覚えてない)、6冊で1万8千円はそこそこ大金でした(消費税がまだない時代)。交通費も御礼も渡した記憶はありません。ああ、それなのにそれなのに、買ってきてもらってなんと僕はその本を「もうちょっと年取ってから読もう」と、読まずにおいたのでした。。。
気がついたら、あれから40+?年も経過していました! もう読む!ようやく腰を上げたのが昨年の5月初旬。伊藤にも読み始めた旨をlineで伝えましたが返信はありませんでした。その月の中旬ぐらいだったでしょうか。伊藤の大学時代の友人Fから、5月初旬に伊藤が亡くなったと連絡が入りました。返信があるわけありません、彼はもうこの世にいなかったのです(ひょっとして伊藤、俺のとこ来たか?)・・・すまん伊藤(泣)
こんな状況になる前に読めばいいのに、と後悔してももう遅い、読み切ることが伊藤へのせめてもの感謝の気持ちとして、また読み続けました。 2巻まで読んだところで疲れ果て、少し休憩でほかの本を何冊か挟み、また読み始めて先月9月にようやく読み終わりました。そのことを伊藤に報告したかった。(心の中で報告しました)
内容はというと、予想通り難解で重い文章、人に読まれることを全く意識されていなのは当然で、手紙だから差出人と受取人だけのプライベートなものです。第三者が読んでも状況がよく判らないのは仕方がありません(多少の解説はあるにせよ)。そして……長い、ひたすら長い(汗)。手紙の中のゴッホは饒舌です。言いたいことが一通り終わって一度文章を閉じても、言い忘れたことを追伸としてまた書く。それが時折本文より長くなる、いったん思考の闇の中へ入ってしまったらとどまることを知らないように書き続ける。それを相手が受け取ったらどう思うか、そこに気遣いはありません。ひたすらに自分の思考を言語化文章化していく、そこに偏執的なものを感じました。
しかしゴッホは意外にも「冷静で理論的」です。絵を観ると、激しく、荒々しく、感情にまかせてガーっと色彩をぶつけていく、そんな感じかと思っていました。しかし特に補色(色相環)については理論的に配色して理性的に描かれていたことがよくわかりました。ゴッホの語彙力やボキャブラリーは豊富で文章の構築力や表現力も優れていて、画家の岸田劉生はゴッホは文筆家になってもやっていけたのではないか、と確か言っていたかと。
夜ランプの明かりでは絵は描けないから、本を読むか手紙を書くしかなかったのでしょうか、文章で人との会話は孤独を紛らわす慰みになったはずです。弟テオ宛の現存している手紙だけでも652通、その他に画家仲間や親せきへ多数の手紙が残されています。ゴッホを経済的に支えたテオはもちろんですが、この難解で膨大な書簡をまとめ上げ出版させたテオの奥さんのヨハンナの功績は大きかったと考えます。『ゴッホの手紙』が世に出ていなかったら現在ゴッホの評価はここまで高くなかったのかもしれません。 やはり絵だけでは伝えきれなくても、文字で伝えられたこともあったと思います。心に残った手紙のほんの一部を掲載しておきましょう。
『キリストただ一人だ、あらゆる哲学者たち魔術者たちなどのうちで、彼だけが永遠の生を、時の無限を、死の否定を、平安や献身の必要とその存在の理由を根本的に確実なものであると断言したのだ。彼はどんな芸術家よりも偉大な芸術家として、平安な心で生きた。大理石も粘土も色彩も軽蔑し、生きた肉体によって制作した。つまりこの前代未聞の芸術家、われわれ現代人の神経質な愚鈍になった頭脳のなまくら機械をもってしてはほとんど想像もつかぬこの芸術家は彫刻も作らず、絵も描かず、本も書かなかった。彼は高らかに断言する、彼が“生きた人間たちを”不死の人間たちを創ったことを。』
画家になる前は伝道師だったゴッホの厚い信仰心と、芸術に対しての本気度が良く伝わってくる文章です。 …すごく重いけど。でも人に気遣いしていたら、あの絵は描けないだろうなぁ。自分のすべきことが明確に見えていたからこそ、その仕事をすることが結果的に人のためになることだと信じ切っていたのです。

僕が20代の頃に模写した『ゴッホの椅子』。当時はわからなかったけど、書簡集を読んでこの絵はいかに色相環(赤と緑、青と橙の補色)が考えられているかよくわかりました。そして活字はあまり得意な方ではない僕だけど、伊藤のおかげで書簡全集を読み切れてしかも勉強になりました。ほかにも貰った大切な恩はある、伊藤ありがとう。そして伊藤や僕と同級で配信登録者のIHさんがゴッホを題材にした原田マハさんの小説『たゆたえども沈まず』を推薦してくれました。とても参考になり、楽しく読めました。『ゴッホの椅子』の対の作品として『ゴーギャンの椅子』という作品があることを初めて知りました。ありがとうございました。


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